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国をつなぐ劇作家 井上明子さん インタビュー その2
 幼い時から演劇に興味があった井上さんは、2002年3月兵庫県立宝塚北高等学校・演劇科に入学した。宝塚には将来宝塚スターを目指しているような生徒もたくさんいて演劇にとても熱心な街だった。そんなハイレベルな環境の中、彼女は 演劇の根幹部分である「脚本」を担当していた。そして、彼女に出逢いが訪れる。
第1章 「出逢い」から

初めての異文化体験:
『中国系マレーシア人との出逢い』

 高校2年のとき、中国系マレーシア人の交換留学生が1ヶ月ほど井上さんの家に滞在することになった。「外見は自分とそれほど変わらないし、中国だって大阪からたった2時間の距離なのに、初めはとても遠くに感じました。」そう話す彼女がその留学生との経験で学んだことは決して楽しいことばかりではなかった。例えば第二次世界大戦中の日本の行為に対する中国人の見解、今でも残る日本人への不信感。平和の中で生きてきた彼女にとってそういう話を聞くのはとてもつらいことだった。しかし、井上さんはその留学生が率直に事実を伝えてくれたことで、お互いの理解が深まったと語る。そして1ヶ月が過ぎたころ、彼女たちの関係は「親友」と言えるまでに発展していった。今ではその留学生に友情を感じるばかりでなく、彼女に出会ったことによって世界が広がったことに感謝していると言う。


第2の異文化体験:『西洋人との出逢い』

 その数ヶ月後、今度は彼女が交換留学生としてオーストラリア、パースへ。第二の異文化体験となるが、今度はオーストラリアの人々に対し外見からして距離を感じてしまった。彼女は結局その壁を乗り越えることができないまま日本に帰国した。「中国人は日本人と外見上の差がほとんどない。そして心のうち、次第に中国行きの構想が出来上がっていた。「近くて遠い中国にとても惹かれるものがありました。もっと中国について知りたいと思いました。」そして2004年、上海行きを実行することにした。


第3の異文化体験: 『中国上海との出逢い』

中国系マレーシア人留学生に出会ってから数年後、井上さんは中国に行く決意をした。日本の大学を休学し、上海戯劇学院に語学留学。大半の中国に来た日本人がそうであるように「初めのうちはすべてにカルチャーショックを感じ、とても心細かった。」と話す。そして、そんな辛さから救ってくれたのは周囲の温かい中国の人たちだった。「彼ら (中国人)にお礼がしたかった。このミュージカルは私なりのお礼の表現なんです。」そして、2005年3月上海留学1年が過ぎたころ、井上さんの「感謝のミュージカル」プロジェクトが本格的にスタートした。



第2章 大切なアドバイス

 ミュージカル企画の実現化には井上さんの想像を超えた困難が待ち受けていた。ここまで一人で進めてきた企画も具体化するとなると役者(日本人&中国人)や音楽制作の人材を集める必要がある。役者は宝塚北高時代の仲間、戯劇学院の仲間が助けてくれるかもしれない。でも音楽は…?照明は…?

 井上さんと上海音楽学院の教授でもある谷村新司先生には「私の知り合いに上海音楽学院の教授がいて、谷村さんがその大学の教授仲間」という関係で少し接点があった。2005年6月実際に井上さんは谷村さんに会いに行き、日中合作ミュージカルへの協力を依頼した。翌月の1日、彼女の「想い」に心を動かされた谷村さんは参加することを彼女に約束してくれた。「とても重要な出会いでした。このミュージカルの実現化に深く貢献してくださった人です。」そして、その約束どおり谷村さんは谷村音楽工作室としてサポートを提供するだけではなく、プロとしての立場から彼女に「貴重」なアドバイスを提供した。

「学校の許可取得が先決ではないか?」
「戦争ものを中国で上演するのは難しいだろう。」

そして、その後の井上さんはこの二つの問題に痛いほど悩まされることになる。
上海戯劇学院のキャンパスで笑顔で話す井上明子さん
夢が実現に向かう映画作りスタート!(ミュージカルの1コマ)
挫折と困難(ミュージカルの1コマ)
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